山のおもしろ歴史いろいろ

雁坂峠​の表示板

Miyakawa Kaneyoshi

​宮 川 金 吉

魅せられた 南アルプス

 私は茨城県神栖村(昭和41年当時)の出身ですが、最初の登山は富士山登頂の経験からです。

東京オリンピックの興奮が冷めやらぬ2年後の夏(昭和41年)中学生最後の夏休みに、友人のHとIの3人の自転車の旅でした。旅の目的は富士山の登頂です。

 国道6号線(龍ヶ崎市)までは砂利道でした。

 1日目は、東京・板橋(親戚泊)。

 2日目は、高尾山(甲州街道沿いの沢泊・上下2枚のシートを棒で立てたものでした)

 3日目は、都留市(沢筋泊まり)です。しかし昨日、身体中を蚊に刺された為に、暗い中3人で草を集めて、シートの廻りに蚊帳のように造作しました。しかしながら作業が終わる頃には真っ暗闇になり、3人でキャラメルだけをなめて、沢の水をたらふく飲んで、草を枕に、泥のように眠りました。(今になって分かったのですが、沢水には糖質以外のカルシウム、ミネラル等すべての栄養素が含まれているのではないかという事が・・・?)

 4日目は、須走登山口(現在の須走神社あたり)からのスタート。7合8尺の小屋泊まり。

 5日目の朝焼けの登頂でした。

​ 夏休みが終わり3人の行動は校長に知れる事になりました。校長室に呼ばれた3人は、校長・教頭先生から大目玉を頂戴しました。帰り際振り返った瞬間、校長・教頭先生の目尻が下がっていたのを少年の目は見逃しませんでした!!

 

 2回目の登山経験は、昭和44年、高校3年最後の夏休み。自転車で行く一人旅の登山でした。

 1日目は、平塚(親戚泊)。

 2日目は、甲府駅前の旅館泊。

 3日目は鳳凰山・鳳凰小屋泊(翌日の台風で足止)。翌々日の台風一過で鳳凰三山の稜線上から初めて見る北岳の勇姿でした。

 そして、この経験が、南アルプス登山の初陣となった理由であります。

 18才の少年にとってこの旅は、未知に向かう冒険とロマンであり、鮮烈な体験でありました。今思えば、眠っている冒険的精神が呼び起こされた様に思います。そして、終生登山のきっかけとなりました。

​ 今となっては、この2つの体験は人生の宝物となりました。

 

 それでは 本題に入ります。その前に一言!!

 私の南アルプス登山経験は尊敬する、写真家 白籏史朗先生の一冊のガイドブックの購入から始まりました。先生のガイドブックに書き込まれた内容と経路は、私の指針となりました。南アルプス登山ファンには先生のアルプスの踏み後が、手の平の上にいつまでも生き続けることと思います。

先生のご冥福をお祈り申し上げます。(令和元年11月30日逝去)

 いよいよ次からは本題です!!

 ※ の1 江戸時代(あるいはその前)からあった興味深い話とおもしろ話!!(全10話)

 ※ の2 私の推薦 南アルプス10コース(半分は変わり種コースです)

 ※ の3 私の体験温泉30とお薦め10選 〈お楽しみに!〉

 ※ の4 後述するとしたポイント話と私の体験した奇っ怪な体験と素晴らしい体験そして最後

       に、衝撃的な実話で締めくくります!!

の1 江戸時代(あるいはその前)からあった

​    興味深い話とおもしろ話!!(全10話)

1)トロッコと強力の話

 その1として最初にトロッコと強力(生活物資等の荷上げのプロ)のお話をいたします。

 私は南アルプスを中心的に約50年登ってきましたが、初心者の頃は芦安村→広河原(北沢峠)のコースが主でありました。その頃から当分の間はマイカーで広河原まで入れたのです。そのまま奈良田に抜けて帰った記憶です。

 今思えば、戸台口から長い沢歩き(水はほとんどありません)で丹渓山荘に辿り着いた気分は、今でも忘れる事はできません。ちなみに現在、丹渓山荘は廃屋です。そして、大平山荘→仙丈ヶ岳→両俣小屋→北岳→北岳稜線小屋そして下山。現在は主に静岡側の畑薙第1ダムを起点として入山しております。

 しかしながら、実は一番多く好きな入山路は、早川町(田代登山口)から転付(デンツク)峠コースなのです。当時は田代発電所に駐車できたのですが、現在は手前に駐車して橋を渡り、尾根に取付き、途中から従来のコースと合流する様になっております。そして転付峠より南アルプスをほぼ全域を踏破できるのです。そして最後に二軒小屋(現在は休業中の事、事前確認必要)に泊まり、翌朝に二軒小屋特製岩魚弁当を転付峠の天然水で朝食を摂り、下山するのが最高の楽しみでした。(最高に美味しい弁当なのです。)

 前置きが長くなりました。お話はその早川町と転付峠、二軒小屋にまつわるお話です。最盛期の二軒小屋には700人以上の人々が住んでいたようです。(主に林道造成と森林伐採運搬)

※ なお後筆いたしますが、トロッコのできない時代に特殊な方法で木材を下流まで運んだ実話を掲載いたします。

 

 さて、700人以上の人々が生活するとなりますと、必要な物が沢山あります。まず、生活物資は強力達が運ぶと思いますが、現地に於いては学校、集会所、床屋、居酒屋、販売所他、いろいろ必要にされたと思いますが、更には、甲斐・信濃・駿府地方からも古手売り、薬売りはじめ、多くの行商人が交易の道を切り開き、また旅芸人等が行き来したとの事でした。日本中多くの峠あれど湧水があるのは珍しく転付峠の天然水は、多くの人々の手助けになったと思います。

 

 次に強力さんの話ですが、当然の様に強力集団ができる(あるいは強力組合なるものが結成される)わけですが、さらに早川町には日蓮宗総本山の守護神である七面山を有しており。さぞ強力は必要とされた事と思います。地元の方に聞いた話ですが、何時の頃か(多分、昭和初期頃と思われます)早川町近隣の温泉旅館の大広間に数十人の白装束姿(凛々とした強力達の姿)が集結をして(多分、新年会か忘年会)多くの芸者衆を並べ立て、それは壮大なお座敷酒宴であったと、知る人ぞ知る早川町の語り草になっているとの事です。

 

 そして、早川町には何十キロもの長いトロッコ軸が敷かれていたとの事です。奥山深く、どうして危険な岩肌に建設できたのか不思議でなりません。現在でも多くの山奥深くにトロッコ跡の名残を見る事ができます。そして、私の動画「寸又川左岸林道」でも柴沢小屋あたりまで入り込んでおりました。更には芦安方面にもいくつかの痕跡を見る事ができます。

 

 ちなみに、林道開発に於いては、広河原・奈良田・戸台→北沢峠のスーパー林道はもちろんなのですが、大倉財閥の林道開発は奈良田越あたりまで、大井川東俣は池の沢小屋の先の方まで開発されておりますし、寸又川左岸林道は概ね柴沢小屋の先10キロ位まで合計50キロ位の開発がされております。(私の足でみた限りです)更には、南アルプス全域を見渡しても、多くの作業小屋が廃屋に今でも残っております。

 

 主にそれらは、林道・林業開発、ダム砂防工事、狩猟小屋、魚小屋、炭焼小屋跡等で、ぜひ登山と同時に昔のロマンに触れてみてはいかがでしょうか。また、既に消滅して幻の道となっている場末の山域にも、そして空白の地と化した秘境の地にも、至る所に山の神が祀られています。天然水を体の奥まで沁み入れて、手を合わせ、一人空白の時間を作ってみるのはいかがでしょうか。

 

 日本アルプスには、日本文化そのものが存在しているのです!!

 

 最後になりますが、私の好きな映画の一つに「飢餓海峡」(原作は水上勉の推理小説)があります。映画の前編部に主人公がトロッコに乗る場面があります。日本全国至る所にあったと思われるトロッコ軌道です!!

2)高遠藩の歴史事案
 2012年、私は初めての御岳スカイレース(2014年御嶽山噴火)に出場する為のトレーニングを兼ねて、その夏の盆休みをレースの下見に行く事にしました。麓の王滝村に入り、その日の内に観光協会を訪ね、翌日から同コースのタイム測定しながら、田の原まで上りました。(田の原まではスキーコースなので急勾配の登り一辺倒なので、かなりきついコースです)
 その日は田の原の宿坊に泊まり、翌日頂上まで登り、田の原からはバスで王滝村の駐車場に戻りました。とりあえず翌週の本番の心構えだけは出来たわけです。


 話の本題はその帰り道の事です。王滝村から国道361号線をを走り152号線に出て、中央道を甲府方面に走っていた時に右手に入笠山が目に入って来ました。いつか聞いた事のある(花の綺麗な入笠山)せっかくここまで来たのだからと登山口の駐車場を目指す事にしました。入笠山は山と言うより、高原歩き。昨日の休息を取るには丁度良い高原歩きなのです。花はほとんどなく(5月~6月頃との事)頂上まで気持ちの良い高原でした。せっかくの登山ですぐ帰るのはもったいないと反対側から遠回りをして戻る事にしたのです。その途中、立て看板に出会ったのです。(写真1)(写真2おそらく高遠より近道をして甲州街道に抜ける予定だったのだと思われます。江戸時代に起きた痛ましい盗賊の事案です。


 では今は桜の名所、高遠藩とはどのような藩なのでしょうか。そして歩みは……。
 戦国時代は諏訪氏の一族→武田信玄の支配→織田信長の支配→保科氏の所領→関ヶ原の戦いの後に徳川領となり、やがてドラマの始まりとなります。
 2代将軍秀忠の隠し子(幼名幸松)は侍女の子として生まれます。発覚を恐れた将軍家は、老中土井利勝以下数名しか知らせず、武田信玄の次女見性院に内密の内に預けられ養育されます。やがて、高遠藩保科正光の子として育てられ、後に保科正之と名を改めます。いつしか3代将軍家光の知るところとなり、家光は実弟の存在に大いに喜び、後に家光将軍とご対面の運びとなります。将軍家光は登城にした正之に高遠藩3万石の相続を仰せつけます。
 将軍家光は、この有能な異母弟をことのほか可愛がったとされます。やがて山形藩20万石に移封となり、その後に会津藩23万石に取り立てられ、後に30万石となります。そして、4代将軍家綱の後見人に任命される事になります。


 この出世の物語はさらに続きます。やがて正之は将軍家の恩に報いる為に、家訓十五箇条を制定します。その中の一項に「会津藩たるは、将軍家を守護すべき存在であり、藩主が幕府を裏切る事あらば、家臣は従ってはならぬ」と記し、以降藩主・藩士はこれを忠実に守り、幕末の松平容保は遺訓を固く守り、最後まで薩長軍の官軍と戦う事になります。
 それはまた、戦いの悲劇を生む事にもなりました。高遠藩が生んだ血の遺伝子は、やがて会津の血流となり、令和の現在でも会津の小学校では忠節と忠義の大切さが謳われているのです!! ひょっとしたら徳川260年の礎は、諏訪一族から武田信玄そして徳川とつないだ遺伝子のリレーが生んだものなのかも知れません。


 高遠藩が生んだ保科正之は、徳川260年の名君なのであります!!

【別記】 現在(今)でも江戸城に天守が無いのは明暦の大火(1657年)で天守他江戸城下が焼け野原とな

     りました。天守の復旧に待ったをかけ、城下の町民の為に復旧と再建に力を注ぐべきとの保科正之の

     発言だと言われています。

3) 深田久弥との出合い

 山の歴史はじめ 山に関するお話をするには、この方のお話無しでは成り立ちません。
 第3話は、日本百名山の命名者として名高い深田久弥先生(小説家・登山家)の関するお話しです。深田先生の墓裏には「読み、歩き、書いた」と刻まれていると聞きます。「日本百名山」はじめ多くの山の文学全集を残しており、山を愛した最も有名な一人であると思います。


 今回の山旅は、その深田先生の終焉の地となった山梨県茅ヶ岳の山旅です。
 中央道を甲府を過ぎ、長野方面に走りますと程なく右手に雄大な山が目に入ってきます。一見して八ヶ岳と見間違えるほどです。その山が茅ヶ岳です。
 一度は登ってみたい! 平成24年7月に連休が取れ、前日の午後に出発して、夕方より登山開始をし、山中で一泊する。但し(この登山方法は水場までの時間を事前に測定しておく必要があります)その日は下山口の明野ふれあいの里駐車場に車を置き、タクシーで登山口まで向かいました。登山開始時刻は17時30分です。スタートしてすぐに暗くなりました。暗闇の中ヘッドランプを頼りに1時間10分ほどで水場に到着です。テント場はありませんが、適当な場所にテントを張り、水を汲みテントに潜ったのですが、すぐに小雨が降ってきました。(水場の岩壁は、昨年の東日本大震災で崩れており、立入禁止になっておりましたが、安全確認しながら必要な水の補給をし、すばやく退散しました。)


 翌日の出発時には雨は止んでおりました。やや急登を1時間ほど登ると、深田久弥「終焉の地」とされる標石がありました。(写真)今までテレビ等で何度も聞いた事のある有名な登山家(小説家・随筆家)。

 両手を合わせて、同じ場所で会えた事だけでも、ここまで登った甲斐があったと感無量になりました。


 実はこの日は曇りで、茅ヶ岳・金ヶ岳両山のピークでも期待した景色は見る事ができませんでした。初日は暗闇の中、水場(BBポイント)まで歩き、テントを張って寝るだけ。翌日は曇りで景色は見れませんでした。
 それでも深田先生の終焉の地に行けた事、一生懸命登って、汗をかき、下山した喜びは生涯忘れる事のない貴重な体験をする事ができました!!

4)賽の河原地蔵尊(高島藩の歴史事案)

 第4話は、2012年9月八ヶ岳渋御殿湯から高見石小屋→黒百合ヒュッテに一泊し、天狗岳から唐沢鉱泉を経て渋御殿湯に下山するコース途中のお話です。

 

 登山口の渋御殿湯は、武田信玄のかくし湯として有名な温泉です。初めて登るコースなので楽しみにスタートしました。1時間程登りますと、明らかに今までとは異なった風景・大きな石のゴーロが広がり、何か異様な空気が広がっている場所に出ました。そこが賽の河原。丁度休憩をしようと思っていた矢先でした。

 妙な標石と地蔵尊があります。(写真1)(写真2)

​ そこに書かれた内容を要約しますと、次の様な内容です。

「信州高島藩領諏訪郡金沢宿(※)本陣問屋 四代目当主小松三郎左衛門は、自村と隣村との山論に対する藩の不当裁定に強く抗議し、直訴も辞さない決意を持って再度願い出るに及びしところ、奉行所は入牢を申しつけ直ちに処刑処せられ、時に延宝6年(1678年)10月25日、金沢下町の宮川沿いに於いて、涙で見守る住民多数の前で34才の若さを一期に其の生涯を終焉せり、更に・・・・・・そして事件の後200年明治13年に至り、宮城上等裁判所に於いて遂にこの事件は金沢側の勝訴判決となり、小松三郎左衛門の悲願はここに漸くにして達成するを得たり。」

 という内容であります。村と村民の為に命を賭して奉行所に強く抗議し、直訴も辞さない不屈の精神誉れ高き人物の姿に、一瞬鳥肌の立つのを感じました。処刑場の竹作を握りしめながら泣き叫んだであろう村人達の涙は、やがて200年の時代を乗り越え、かなう事になります!!

 登山する度に遭遇した物語が今ここに甦る!!

【別記】「本陣問屋」人馬継立業務、荷物業務、飛脚業務等の最高責任者。 

5)幽霊の出現

S1
 2010年当時バリエーションルートとして知られていた日向山八丁尾根ルート、10月の連休を利用しての登山計画。社内総務部Kさんを伴っての二人登山です。Kさんは鹿児島大学時代は探検倶楽部に在籍していたとの事。計画を伝えたら二ツ返事で同行したい旨の返事。二人の登山が決まりました。
 このコースには道中水場は無く、2日分の水を背負わなければなりません。そして、1ヶ所ザイル使用ヶ所有り、さらには大岩山の先からは踏跡不明瞭で獣道にも注意をしなくてはなりません。一部藪コギと、つまり(バリエーションルートの条件を満たしているのです)道中(写真)は藪コギを抜け出し、休憩時に撮った鞍掛山方面の一枚です。この後は、烏帽子岳から三ツ頭に抜け、2日目のビバークは六合岩小屋です。ちなみに初日の天幕は大岩山の手前でした。登山最終日は、甲斐駒岳から北沢峠に下山して、広河原からタクシーで疲れを取りながら、日向山の駐車場に戻る途中のドライバーの一言でした。南アルプス林道を程なく走り、夜叉神トンネルにさしかかったその時です。「お客さん、このトンネルは幽霊が出るので有名なんですよ。」ときた!(幽霊が出る出ないは、何処にも有る話。幽霊と熊の出没にいちいち驚いていては登山は出来ないですが。)この時のドライバーの一言は、他人事ではなかったのです。その時の私にとっては衝撃の一言です。Kさんと顔を見合せたその理由は次頁のS2で!!

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S2
 さかのぼる事10ヶ月前、2009年12月30日の暮れ。私は夜叉神の森駐車場におりました。すでにその一年前に(2008年)北岳登頂に成功しており、今年の目標は南アルプス主稜線の縦走踏破を本論でいたのです。その為には少しでも先に進み、時間的肉体的余裕を作りながら登山を成功させなければなりません。
 夜叉神トンネルは非常に長いトンネルで、ザックを背負っての歩きは30分程かかります。程なく歩いて、トンネルの出口あたりに付いたのは20:00頃になっておりました。今日はこのトンネルの出口に張って(写真)、明朝早く出発しよう。このトンネルの出口付近の側溝には、トンネル内の岩壁からすばらしく美味しいアルプスの深層水が出ております。天然水を飲んでシュラフに潜り込んだのは21:00頃でした。すっかり寝込んだ深夜2:00頃だったと思われます。テント内に潜入した強盗が私の上に馬乗りになって無言で押さえつけている大男、なかなか跳ね返す事ができません。1~2分たったでしょうか、全身で男を跳ね返して目を覚ましたら、誰もいません。(今のは強盗ではなく、幽霊だったのだと分かるまで然程の時間を用しませんでした。)
 私は元々霊感には鈍感で、幽霊なるものとは無縁なのです。
 その人に出たのです。つまり間違いなく、本物の幽霊だと確信しました。この実体験を正月明けにKさんに伝えていたのでした。10ヶ月前の冬のテントを張ったその場所をタクシーが今、正に通過しているのです!!

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特記
 この夜叉神トンネルは昭和30年頃完成したと聞いておりますが、工事中の犠牲者はいなかったようです。
 但し、広河原までのスーパー林道工事に於いては多くの犠牲者を出し、林道途中にも慰霊碑が建立されております。更には昭和40年代にトンネルの上部高谷山でも遭難者が出ており、この区域の彷徨ったいくつかの霊が休んでいるのかも知れません。
 私は昨年2019年の夏に夜叉神峠より観音経トンネルまで下山し、夜叉神トンネルを歩いてみました。60年以上続いた湧水は改修工事により出ておりませんでしたがトンネル上部より下りて来る霊気は変わらぬものでした。
※ 興味の有る方はヘッドランプを用意の上、一度歩いてみて下さい。

6)早川村の青年と奈良田村の娘さんの実話の恋愛物語

S1

 第6話は、この山歴から入ります。
 1975年 私の友人Hの仲間達(Hは当時、既にホンダの契約ライダーとなって、プロのモトクロス選手として活躍しており、モトクロスとロードレースのプロ選手の仲間達がおりました。)その中の1人にTチャンがいたのです。Tチャンとは飲み友達となり、いつしか登山の話が持ち上がり、南アルプスを縦走する事になったのです。広河原から北岳肩の小屋、そして熊の平小屋、さらに三伏峠小屋と、テント泊で進んだのですが、3日目のその夜にチョットした事件が発生しました。すっかり寝込んだ夜間に豪雨が襲って来たのです。テントは流され、体はビショビショで冷えきってくるわで 大変な状況の中、小屋に駆け込みました。囲炉裏をかこんで焚き火をしていた主人に助けられました。
 翌日の下山時、御礼として残りすべての食料を差し上げましたが、お陰でザックの方もだいぶ軽くなったので助かりました。ちなみに登山開始時のザックの重さは約30kg、少し高い所にいったん置かないと立ち上がる事が出来ない位です。(シート製のテントに、ジャガイモ、ニンジン、米等、更にはコンロはイタリア製のエバニューの白灯油使用の圧縮式でガスを発生させるタイプ。これだけでも相当重い。)
 そして、下山は現在の鳥倉口ではなく、鹿塩から大鹿村を抜けて帰っていったのです。

・・・この経験は、今となっては忘れられない貴重な体験となりました。・・・

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S2

 さて、2013年の夏(写真1)(写真2)、38年前にTチャンと縦走したコースを逆に歩いてみたくなった。(と言うよりは乗った事のない身延線と昔乗った事の有る飯田線に乗ってみたかったのです。夏休みをどう使おうが個人の自由、むしろあり得ない事の方がおもしろい。身延線は1時10分、飯田線は岡谷駅から伊那大島駅まで3時30分の乗車です。)
 と、その時はその意志が強く出た登山計画でした。田代入口からほどなく入ったヘリポートの広場に車を止め、翌日の朝予約のタクシーで身延線下部駅から甲府に出て、線路をつないで飯田線伊奈大島駅下車。さらに予約のタクシーで鳥倉登山口までアルプスを横断して、二軒小屋から伝付峠で弁当食べて、田代駐車場に戻るという遠大なる登山計画を実行したのです。


 前置が長くなりました。本題です。


 身延線下部駅から乗り合わせたのは、90才近くになろうかと思うほどのおばあちゃん。聞きますと、早川町雨畑から来て、千葉県の法事に向かうとの事だが、甲府駅で上り特急の乗り方がわからないとの事。新宿駅では下り口で親戚の人が待っているとの事です。特急の乗り場まで案内すると申し出ますと、丁寧な御礼の言葉が返ってきました。話しをしている内ほどなくしますと、妙な事を話し始めました。


 それは早川村と奈良田村に伝わる男女の恋愛伝説でした。奈良田の娘さんは村一番の美人でそれは評判だったそうです。村の祭りで知り合った二人は、いつしか村と村の中間にある橋のたもとで逢うようになったそうです。それがさらに深くなり、毎日逢うようになり、やがて青年が来れなくなった時には、青年の早川村の家まで来るようになり、泊まっていくようになったそう。(男女の心は不思議なもので相手が夢中になれば心に響くとは限らないのです。)娘さんがあまりに夢中に毎日来るものだから、ある日青年の家では戸を締めてしまったそうです。ここで帰れば良いのですが、娘さんは戸の隙間から入って来てしまう。ビックリした青年が今度はすべての戸をしっかり締めてしまう。(この時点で男女の心は破局しているはずなのに、無垢な村の娘さんは一心不乱で何も見えない状態になっています。)
 ところが、事もあろうに、ただ一ヶ所開いている場所...煙突から真黒になって入って来たものだから、しかも目だけ浮き上り、髪は乱れ、まるで人間とは思えない姿だったそうです。青年はもう気持ち悪くなり、思い悩んだ末に娘さんを殺そうと計画する事になったそう。(言ってみれば青年の方も何も見えなくなっており、おそらく自分が何をしようとしているのかわからなくなっていたと思われます。)
 毎日夕刻になると通って来る村と村との間には、木造の橋がかかっており、沢の流れは激流です。(今では奈良田さらにその上流部にダムが建設されており、流れはゆるやかですが、当時は相当な流れだったと思われます。)やってはいけない事の決行日、夕刻には必ず渡る木造の橋の下側からノコギリで切れ目を入れて、重さで折れるようにしたそうです。
 そしてその日の夕刻、橋を渡りかけた娘さんは激流に飲み込まれていきました。皮肉にも知り合った頃の二人が、橋のたもとで何時も仲良く楽しそうに話していた姿を何人もの村人が目撃していたといいます。その同じ所で二人は悲劇で幕を閉じる事になったのです。
 この男女の事案はその後、警察沙汰になる事もなく月日は流れますが、青年も自らを咎めて亡くなったそうです。両村に語り継がれる悲しくも哀れな真実の伝説です!!...


 気が付けば1時間程の乗車は甲府駅に到着し、おばあちゃんを上り特急のホームまで案内して、自らは岡谷方面の特急に乗り込みました!!

 今まさに忘れ去られた伝説が 今ここに甦る!!

 次回は、那須岳井戸沢の遡行ですが、険しい山奥の参勤交代と宿場宿です。

  個人理由で少し遅れていますが、ご了承ください。
  ※9月末頃までにUP出来るよう心がけます。